今日も、英語で御書を読んでいこうと思います。
本日の御書は、「一生成仏抄」の1文です。
原文
衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し。
一生成仏抄
迷う時は、衆生と名け、悟る時をば仏と名けたり。
譬えば、闇鏡も磨きぬれば、玉と見ゆるが如し。
只今も、一念無明の迷信は、磨かざる鏡なり。
是を磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。
深く信心を発して、日夜朝暮に、又、怠らず磨くべし。
何様にしてか磨くべき。
只南妙法蓮華経と唱えたてまつるを、是をみがくとは云うなり。
衆生と言っても仏と言っても、違いはなく同じものです。
迷っている時には衆生と言い、悟った時には仏と言うのです。
たとえば、曇っている鏡も磨いたなら、輝く玉のように見えるようになるものである。
今の衆生の一念は、無明に覆われた迷いの心であり、いわば、まだ磨いていない鏡である。
これを磨けば必ず、真実の悟りの生命となり、よく映る綺麗な鏡となるのでしょう。
深く信心を起 こして、昼も夜も朝も夕も怠ることなく磨くべ きです。
では、どのようにして磨けばよいのでしょうか。
ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということです。
英文
It is the same with a Buddha and an ordinary being. When deluded, one is called an ordinary being, but when enlightened, one is called a Buddha. This is similar to a tarnished mirror that will shine like a jewel when polished. A mind now clouded by the illusions of the innate darkness of life is like a tarnished mirror, but when polished, it is sure to become like a clear mirror, reflecting the essential nature of phenomena and the true aspect of reality. Arouse deep faith, and diligently polish your mirror day and night. How should you polish it? Only by chanting Nam-myoho-renge-kyo.
“ordinary” には、「普通な」や「一般的な」という意味があり、
“an ordinary being” で「衆生」を表現しています。
「迷う」は、”delude” なんですね!
“lose” が使われると思っていました。
「悟る」には、”enlighten” が使われていますね!
「一念無明」は、”the innate darkness of life” という英文なんですね!
“innate” は、「生まれつき」という意味を持つ形容詞になります。
「法性真如」は、”the essential nature of phenomena and the true aspect of reality” と訳されていますね!
“phenomena” は、”phenomenon” の複数形だそうで、「現象・事象」という意味になります。
また、”aspect” はも「姿・様相」の意味があります。
つまりは、それぞれ、「事象の本来の性質」と、「現実の本当の姿」くらいの意味合いになりそうです。
(「法性真如」の意味が理解できていないので、英語からの理解になります。本来の意味をご存知の方は教えてください。)